<ホストファミリーの当たりハズレ>
ホストファミリーと聞くと、温かく留学生を受け入れてくれて、現地のいろんな場所に連れて行ってくれたり、ホストシスターと恋のお話に花を咲かせたり、、と想像する方も多いかもしれません。
もちろん、そういう心優しい、純粋に「留学生と触れ合いたい!」という理由で留学生を受け入れているファミリーもいます。
しかし、現実はそう甘くはありません。
家庭によっては、留学生の受け入れを「ビジネス」感覚で行っているお家もあります。留学生を受け入れるお家の方々は、お金をもらっていることがほとんどだからです。
私が留学していた場所のファミリーの方々も、そうでした。中には、母子家庭のお家もありました。
もちろん、もらっている金額はそんなに多額ではないとは思いますし、具体的にいくらと聞いたわけではありませんが、それぞれのお家の暮らしを間近で見ていた私から言わせてもらうと、おそらく少し多めくらいにもらっていたのではないかなと思います。
4回も引っ越す羽目になった話
少し話は飛びますが、私は、高校二年生のときに、東京都が都立高校生を対象にした留学プログラムの次世代リーダー育成道場という、都の税金を使わせていただくことのできる留学プログラムで、オーストラリアの南オーストラリア州、アデレードという場所に留学をしていました。
期間は十か月間、都立高校生の中から選ばれた100人が行きます。
この十か月間、特別な理由がない限りは基本的に同じお家にステイすることになっています。しかし、私はホストファミリーのことでいろんな問題が起こり、4回家を引っ越しました。
正直、東京都が主催で信用できるプログラムだったので、ホストファミリーでひどい家にあたることはないだろうと、完全に信用しきって油断していました。
今思えば、出だしからかなり不安が多いスタートだったのは事実です。
実は私は、ホストファミリーが出発の直前まで決まりませんでした。
渡豪するしばらく前に、自分の自己紹介、写真などを添えた手紙を一斉に出すのですが、周りの友達はどんどんファミリーの情報が入ってくるのに、私にはそれがなかなか来ませんでした。何度か都の方に問い合わせ、やっとホストファミリーが決まったと連絡が来たのは出発の一週間前を切ったころでした。
私の人生で初めてのホストファミリーは、ホストマザーとホストグランドマザーでした。そのほかに猫を飼っているということでしたが、それ以外には特に情報がなく、不安だったのを覚えています。
これから詳しく書いていきますが、このお家は、一週間ちょっとで引っ越すことになりました。
はじめの一週間での引越し体験
まず、オーストラリア到着後、迎えにはホストグランドマザーが一人で来てくれました。
第一印象は、ちょっと怖そうな人だな、というかんじでした。年は大体50代後半から60代前半くらいだったと思います。
少し緊張しながらも会話をして、お家に着きました。家に着くと、ホストマザー(30代後半くらい)がいました。
でもなんだか、彼女の様子がおかしいのです。真夏でとても暑いのに、ソファーベッドの上でブランケットにくるまっています。そして、ブランケットから少し見える手足は、がりがりに痩せこけていて骨のようでした。
げっそりとした顔で私のほうをちらっと見て、Hiと一言。それ以外はほとんど何も話してくれませんでした。
そんな感じで、ホストマザーとはあまり話すことができずにいました。
その日は、到着がまだ午前中だったので、ホストグランドマザーが近くの大きなショッピングモールに連れて行ってくれることになりました。
ここで、衝撃の一言を告げられます。なんと、「うちにはWi-Fiがないから、自分でポケットWi-Fiを買ってデータを月々で買うようにしてね。」と普通の顔で告げられたのです。
しかし、絶対条件のうちの一つとして、一人部屋を必ず与えるというもののほかに、インターネット環境を提供するという規約があったのです。完全にこれを破っています。
しかし、ホストマザーの圧力が強すぎたこと、また、全然英語ができなかったことで私はそのことを言えず、結局あれよあれよという間に全てを買わされ、3万円分ほどお金を払わされました。
今思えば、インターネットがないなんて絶対にうそだったと思います。なぜならマザーやグランドマザーは普通にノートパソコンなど、ネット環境が必要なものを使っていたからです。(笑)
ホストが怖い 事件の話
また、私はホストグランドマザーを恐れていました。それは、あるちょっとした事件があったからです。
これは完全に私の責任なのですが、バスルームのボディーソープを勝手に使ってしまったのです。留学生は自分の生活用品は自分で買うという決まりがあったため、ホストグランドマザーはものすごい剣幕で私に怒鳴ってきました。
怖すぎて、泣いたのを覚えています。(笑)今となっては1つの思い出話です。でも、はじめに書いた通り、ホストグランドマザーだって「ネット環境を提供する」という規約を破っていたんです。今考えたらお互い様です。(笑)
こんな感じで、私のオーストラリア生活は大きな不安とともに幕を開けました。お家に着いてから何日かしても、相変わらずホストマザーはげっそりして具合が悪そうで、話もしてくれませんでした。常に体調が悪そうで顔色は真っ青というかんじでした。
そして、初日の夜。事件は起こりました。
夜中二時ごろに、ホストマザーのすすり泣くような声が聞こえたのです。なんだろうと思い耳をかしげていると、ホストグランドマザーが何かをホストマザーに話しているのが聞こえました。
はじめは普通に話していたのですが、だんだん声は荒くなっていき、最終的にホストグランドマザーの怒鳴り声と、ホストマザーの泣き叫びヒステリックになっている声が聞こえてきました。
同時に物を投げるような音が聞こえました。私はただ怖くてどうすることもできず、ひたすら怯えることしかできず、、でも次の日は学校のために朝早く起きなければならなかったので、耳をふさいで寝ました。全く寝れませんでしたが(笑)
そして次の日の朝、ホストグランドマザーは何事もなかったかのように私に接してきました。渡豪してすぐで日常会話程度の英語もままならなかった私は、前日の夜の出来事について聞くこともできず、ただただ同じことが起きないように願うことしかできませんでした。
相談をしきれなかった結果…
親子で少し喧嘩がヒートアップしたのかな、くらいに思っていましたが、その日から、ホストマザーのヒステリックはどんどんひどくなっていきました。
しまいには、ホストグランドマザーもヒステリックになる始末。毎晩のように同じようなことが起きるため、ほとんど寝られず、目の下にはクマができるほどでした。
さすがに学校の先生か東京都のプログラムの方に相談しようかと思ったのですが、どこからが相談していいラインかが分からず、結局何日も我慢しました。
実は、事前研修で、よっぽどのことがない限りは基本的に自分で解決するように言われていたのです。
この期間は、一週間ちょっとだったのですが、本当に地獄でした。留学に行く前は、切り取られた明るい部分しか見ておらず、自分はホームシックなんてなるわけないと思っていましたが、はじめの一週間でもう帰りたくて仕方ありませんでした。
これからまだ10ヶ月もあるなんて、考えるのも嫌でした。ストレスで体重も5キロほど落ち、毎日ホームシックで泣いていたのを覚えています。
こんなかんじで精神的に辛い日が続き、とうとう限界がきて、一度学校の先生の前で大泣きしてしまった時がありました。このことで、私のホストファミリーの実態が東京の方に伝わり、その日に家を出ることが決まりました。
これが、渡豪して一週間ちょっと経った頃の出来事です。
2回目の引越し
かなり急な引っ越しだったため、当然次のファミリーは見つかっておらず、2週間程度新しいお家が見つかるまで、「仮ホストファミリー」という形で、自分の学校の先生のお家にお世話になれることになりました。
家にはプールが付いていて、乗っている車はBMWという、かなり裕福なお家でした。先生は男の方で、50代後半、奥さんもいました。
お二人共本当に優しくて、家にあるものはなんでも使っていいよ、食べたいものはなんでも食べてね、と言ってくれました。はじめの家はインターネットもなく、食材も決められた分しか与えてもらえなかったりしたので、このお家が天国のように感じられました。(笑)
このお家にずっとステイできればよかったのですが、仮ということで、2週間ですぐに出なければならず、とても悲しかったのを覚えています。
そして3度目の引越し
3つ目のお家は、お父さんお母さん、ホストシスターとホストブラザーという家庭でした。ホストブラザーといっても彼はもう23歳で婚約者がいて、婚約者の方も一緒に住んでいました。
このお家はダウンタウンからとても近く、また家族の方々も温かく優しい方ばかりだったのですが、ある日突然ホストマザーとホストファーザーが二か月クルージングの旅行に行くということを告げられ、「その間はホストブラザーとその婚約者の方がご飯を作ったり食材を調達したりする」ということを言われました。
またトラブル
しかし、ホストファーザーとマザーが出発してみると、彼らは朝方まで出歩いて遊んだり、買い物もろくにしてくれず食材もろくに与えてくれない、という感じでした。そのため、常に空腹で、庭に生えていたオレンジの木から、オレンジをもぎ取って食べていました。(笑)
話だけ聞くと野生児のようですが、この頃は本当にそうでもしないとお腹が空きすぎてダメでした。パンがストックとして家にありましたが、賞味期限はとっくに切れてカビが生えていたりするものばかりで、結局庭に生えたオレンジに辿りついたのです。
夜ごはんはありがたいことに、近くに住んでいたおばあちゃんがご飯を1週間に一回ほど持ってきてくれるので、それを少しずつ数日間に分けて食べていました。
しかし、学校のオーストラリア人の友達にこのことを話すと、学校の先生か東京都の方に相談するべきだと言われました。
しかし、ホストファミリーのことを相談するのはこれが初めてではなかったので、相談するか正直少し迷いましたが、ご飯がないのは確かに辛いと思い、結局また東京都の方に相談しました。
そして、食事を出さないのは絶対にダメという判断で、またお家を引っ越すこととなりました。
4度目、最後の家では…
最後のお家は、ホストマザーとファザー、シスター二人、それにスイス人の1つ年下の女の子という家庭でした。
この頃は、英語などもだいぶわかるようになり、自分の思っていることを伝えられるようになっていた分、ファミリー間の人間関係に悩みました。
ホストシスターとスイス人の留学生の子は既に3か月ほどを一緒に過ごしており、とても仲が良く、私はそこに入っていける雰囲気ではなかったのです。
そしてそれよりなにより一番の問題、それは、スイス人の女の子です。彼女は、人のものを盗む癖がありました。
私は、お気に入りだったTシャツ、そして、お菓子やシャンプーなど、結構色々なものを盗まれました。金品を盗まれたことはありませんが(盗み癖に気づいたのですぐに鍵付きのスーツケースに入れたためかもしれませんが)お菓子やシャンプーは幾度となく盗まれました。
ホストマザーに相談すると、「実は私もいろいろ盗まれている」ということを言っていて、私が盗まれたものを全て買ってくれました。
なんだかホストマザーに申し訳ない気持ちになりながら、そのスイス人の女の子の行動には驚きました。一度ホストマザーが注意をしてからはそういったことかなり少なくなりましたが、ちょこちょこ何かがなくなることは結局ずっと続きました。
そんないろんな悩みはありつつも、このファミリーの方は結構いろんなことを体験させてくれました。まず、ファーザーがヨットを持っていたので、近くの海でそれに乗せてくれたり、私の誕生日には、日本食を作ってくれたりしました。
また、学校が連休のときには、キャンプに連れて行ってもらったりもしました。このホストファミリーのお家に移ったのは残り三ヶ月ほどの時期だったので、最後の最後でやっと、ホームステイらしい経験ができた感じです。
ここまでの道のりは本当に長く辛いものでしたが、最後はそうやって、楽しい経験ができてよかったなと思ったのを覚えています。
まとめ
これが、私のホストファミリーの体験談です。
もしも、私のように「ハズレ」のホストファミリーに当たってしまったら、まずは学校の先生、もしくは信用できるプログラムの関係者の人に相談するようにしましょう。
どんなことにも「100%」というのはありません。そのため、多少は我慢しなければならないことがあるということも胸に刻んでおかなければなりませんが、限られた期間でのせっかくの留学、我慢しすぎて何も楽しめないようでは、台無しです。多少心配しすぎかな?と思っても、手遅れになる前に相談することをお勧めします。
私は正直、そのタイミングを失って、現地での限られた時間を嫌な気持ちで過ごしたことだけが、このオーストラリア留学で一番後悔していることです。
留学は、キラキラしていてかっこいいというイメージが強いかもしれませんが、実際には辛いことの連続です。特に、ホストファミリーについては、いろんな問題が起こることも想定しておかなければならないということを、心にとめておいてください。
一番大事なのは、辛くてもいつかこの災難は終わると信じて、くじけない心です!
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